「枕草子」の主人公定子の短い生涯で泣いた

最近、「100分de名著」のオンデマンドを見るのにハマっている。先々週は「罪と罰」を視聴したのだけど、例の「自分の欠点リスト」の三度めの書き直しを命じられた時だったので、楽しめなかった。

先週は選択を慎重にして「枕草子」と「アラビアンナイト」を見た。

枕草子」に関しては『ああそんな事あったかなぁ』という感じ。講師の三田村雅子さんが「ミーハー目線」といっていた。

清少納言が中宮定子に仕えたのは、のべ七年。しかも一時へんな噂に嫌気が差し、宮中を辞した事もあった。さらに定子が父の後ろ楯を得ていたのはそのうちの2年半だったという。

という事で、定子についてググってみた。

定子は、藤原道隆と高階貴子の長女。道隆はイケメンで酔うと軽口を利く明るい人だったらしい。貴子は高内侍とも呼ばれる才媛で漢詩に秀でており、殿上人だけの詩会に招待されたり、百人一首にも選ばれている人。
二人は八人の子に恵まれ、定子には三人も同母妹がいた。

定子は明朗闊達な性格で教養もあり、従弟である一条帝の寵愛を一身に受けた。

14才のとき入内し、993年に清少納言は宮仕えを始めた。しかし2年半後の995年に道隆が亡くなると、叔父の道長が兄の伊周を左遷し、懐妊のため実家にいた定子の目の前で逮捕した。定子は自ら鋏で髪をおろした。

その後も邸が火事になったり、貴子が亡くなったりし、隆道と定子の「中関白家」は災難が続く。997年には一条帝で定子は再度入内するが、一度出家した女性が後宮に入る事は顰蹙で、住まいは内裏内に持たせてもらえず、帝も夜中にこっそりと人目を憚って定子の元へ通わなければならなかった。

しかし、一条帝の寵愛は変わらず、定子は999年に第2子である皇子を出産する。けれども同じ時期に、有名な道長の長女である彰子が入内してくる。

1000年に定子はまた皇女を出産するが、産み落とした直後に亡くなった!

清少納言はこれをきっかけに宮仕えを辞める。

定子の遺児の皇女たちは、末の妹の四の君が別当として宮仕えをしながら育てていたが、一条帝と交流していく内に、この姫君も寵愛を受けるようになる。しかしこの女性も身重のまま亡くなってしまう(1002年)。


続いて、枕草子に登場する東宮(三条帝)妃の次女の原子(もとこ)が吐血し突然亡くなる。ライバルの妃の毒殺説もある。

ちなみに三女は、皇子の妃だったが、父道隆が亡くなった頃離婚している。この皇子は恋多き和泉式部を妻に迎えたために、正妻にも離婚されている。


道長の長女の彰子が出産したのはようやく1005年の事で、この頃紫式部が宮仕えを始めた。だから、清少納言紫式部は同じ時期に宮仕えをしていない。二人がライバルだったというのは、後世の人の勝手なイメージである。

源氏物語」は1008年くらいにはだいたい出来ていた、と現在は考えられている。

こうやってみると、光源氏の母「藤壺の更衣」の、父がいないとか、産んですぐ亡くなったという設定は、むしろ定子から来ているとすら感じる。

源平時代になると、二人の天皇に入内した多子(あたるこ)という中宮や、中宮になっても養父である白河院と関係を持たされていたという璋子(たまこ)がいる。璋子は崇徳院後白河院の母であるが、身障者の皇子も二人いたらしい。

璋子と多子は藤原氏から派生した大徳寺家のおばと姪である。大徳寺家は四人中宮を出して栄華を極めた。

国宝の「源氏物語絵巻」は白河院が璋子のために描かせたのでは?という見解が強いらしい。

藤原氏の姫君たちもなかなか可愛そうである。権力争いに利用され、皇子が産まれるかストレスにさらされ、父が死ぬと放り出される。

藤原氏嫡流は、不比等の次男から道長、昭和の近衛文麿に続く「北家」らしい。
天皇家の歴史が断トツに長いが、藤原氏の系図を書いてみるのも面白いかもしれないと思った。

枕草子」はそんな男性社会の、ほんの五年間ほどの、光輝く時間が対象のエッセイなのだが、千年の時間が経った現在も普遍的な面白さがある。じっくり読んでみたい。