猿之助が訪ねた 民芸・魯山人・半泥子

紅衛兵に囲まれているような。そんな心理状態に風邪ひいて、大変しんどかったものの、アイス食べたら気分も咽もよくなったりして。しかし、まだ変な声ですね。


先週、市川猿之助がBSに3本出ました。たけしの番組のゲストや、単独で熊野古道を行くものも。しかし秀逸だったのは、銀座のお店を5店舗訪ねたもの。BS6でした。

まずは、民芸のお店「たくみ」。社長は志賀直哉の甥。


次は「黒田陶苑」。北大路魯山人の器を扱うお店。

そして黒田陶苑社長親子と「割烹、中嶋」。魯山人がやっていた「星岡茶寮」の料理長だった人の孫が営む、カウンター4名のお店。


次は「銀座天一」。「天一」の創業者矢吹勇雄さんは、川喜多半泥子に贔屓にされて、交流があったとの事。


最後は、猿之助の祖父や大叔父中車が愛した料理屋「はち巻」。ファミリーヒストリーに出てきた先代市川中車の娘、貞子さんは93歳でラスベガスで存命で、このお店を懐かしんでいるとか。「はち巻」さんは前任店のお取引先でもありました。



銀座の成り立ちを説明するコーナーでやはり前任店のお客さま「越後屋」の永井社長が登場、懐かしかった。

「たくみ」の社長が魯山人について、
魯山人の作品と、元になった安土桃山の作品を並べた展覧会を見たときは『みなきゃ良かった』と思いました」(笑)

と話したため、急きょ「黒田陶苑」では、魯山人と乾山の作品を比較…志賀社長のおっしゃる事は正しい(笑)

しかし黒田社長らによると、魯山人の「様式写し」(模倣)は、陶器を磁器で再現したりしていて、なかなか凄い!との説明。

何から何まで徹底的に研究した魯山人は、美濃焼織部焼、などなど、あらゆる焼き方を自分の釜で再現する事ができた。

「中嶋」では魯山人の器で懐石をいただける。こちらのお店の食器は比較的シンプルなものが多かった。実際に使う事を想定したというが、いろんな作品があるんだなぁという印象。  

…支店が多い「天一」が半泥子と交流があったのも意外。
初代社長は昭和五年に日本橋で独立したが、二年後に銀座に店を移す。ほどなく半泥子が客としてやってきた。「天一」は資金を使い果たしていたが、使っている食器や調度は「筋がある」と半泥子は誉めた。そして、自作の食器をただで分け与えた。

天一」はごま油とサラダ油を混ぜてさっくりと揚げる新しい天ぷら。野菜天ぷらを始めたのも矢吹社長。

威圧感のある魯山人に対し、三重銀行の頭取であり作品を生前に売ることのなかった半泥子は、「誰とでも分け隔てなく話す気さくな人」だったそうだ。

陶苑と割烹の人は、すごく腰が低くて、魯山人の事を「神」みたいに扱っていた。まぁ「魯山人」で商売しているのだから。

天一」の専務も板さんも粋な事は同じだったけど、どことなくひょうきんだった。比較的安価で良質な天ぷらをめざしている企業コンセプトも、半泥子は愛したのではないか。

魯山人の「美食倶楽部」や「星岡茶寮」はすごかったんだろうけど、やっぱり構えたお店だったろうし。

猿之助魯山人の作品をたくさん所有しているらしいが、番組中では
「半泥子好きだなぁ」
と言っていた。私も「天一」に行きたくなった。

冒頭の「たくみ」の社長が、
漆器については、あと10年で作り手がいなくなる!」
と警鐘をならしていた。漆は「買い」ですね。

魯山人について、私は今回初めて知ったようなものでしたが、単にウルサイおやじではなく、陶芸、書、画、篆刻など作品の数が膨大で、どれもすごい「巨人」な事は分かった。

お金がたまったら、伝統工芸展で漆器を買おうかな。